弾正どっとこむ 光と陰
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光と陰

 2004年4月17日(土)、文京シビックホールで、『小林恭バレエ団公演53』が行われた。
 オレは作曲とDTM演奏で参加。この次には翌年1月にオケの指揮をさせて頂く事になっている。
 ようやく『元の世界』に戻る日が来るわけなのである。随分な遠回りをしたもんだ。
 考えてみれば、Finaleを逸早く導入して写譜の手間を簡略化したところから、世間の誤解は始まった様だ。
 オレを紹介するのに最も手っ取り早い台詞が、『マックで音楽やってる人』だった。普通、これを言うとDTMプレイヤーって事になる。だから世間から押された烙印は、DTMプレイヤー、つまり既成事実に乗っかって本当にやり始めたのだ。
 そもそもは、初代ミュー次郎(誤字かも(^.^;))が最初。んで出来るに決まっている呼ばわりされ、一日でマスターした。だから天才って言われてもねぇ。(^.^;)
 そこでオレは、競馬の大勝ちでマックを購入、選んだのはDTMではなくDTPと言った方がいいみたいなFinaleだった。ノーテーションソフト、つまり楽譜作成のソフトであって、DTM、つまり音源出力用ではないのである。
 ここで誤解を解こうと踏ん張ったのだが、世間から来る注文はDTMばかりだった。そのままズルズルと生きて行く事になる。
 勿論、東京チェンバープレイヤーズのコンサートだとか、そういった物もFinaleを使った。生楽器用の音作りが出来るところを世間に見せたかった、という気持ちも当然あった。だが、東京チェンバープレイヤーズのコンサートをやりました、で終わってしまった。(-_-;)
 そんなしがらみでもがいている内に、この日を迎えた。文京シビックホールは後楽園駅前。今回は明らかに日の目を見ようとしているオレの存在があった。だが、十数年前、悔し涙に暮れた思い出がここにはある。その頃の事は、決して一生忘れてはいけない、この日のオレは、そう思った。
 田中先生の、山本先生の、小沢先生の、渡辺さんの、そして武蔵野音大の教授陣の、皆様の暖かいご厚意である程度敷かれたレールを歩いた若い頃のオレ。いつも感じていた事があった。それは、「オレの実力って、誰かの助けが必要な程薄っぺらな物なのか?」って事。勿論皆様には感謝していた。そういった方々のご尽力あってこそ、こんなオレでも殿下とご一緒出来たり、巨大企業のトップとお付き合いしてセレブな世界を知る事が出来たのだから。でも、心の底ではいつも、「本当なら自力だけでここに来なくてはいけない筈」と、自分を責め続けていた。表向きは社交的で人当たりが柔らかいが、心の中はかなりねじれていたのだ。
 そんなオレは、最終的に東京バッハ・モーツァルトというオーケストラの舞台を踏む事になる。あのN響首席、松崎裕氏の代役。
 このオケのメンバーは殆ど日本のトップと言っていい程の面々だった。色々な事を教わった。色々な事を言ってもらえた。だが、吸収して実践したのは途中まで。もうホルンを吹く事に苦痛を感じていたのだ。
 勿論、ホルンが嫌いになるなんて事は無い。一生あり得ない。大好きなのである。だが、吹き始めたら最後、それは苦痛になる。腕がどうの、練習の成果がどうの、そういった事とは掛け離れた次元で、そういった気持ちが起きてしまった。
 それは、他の人たちと正常なというか円滑なコミュニケーションが取れないジレンマだった。
 上京して以来、それがずっと自分の中で重く頭をもたげていた。本当に苦しかった。どうしてオレは、こんなに責められるのだろう?どうしてこんなに信じてもらえないのだろう?どうして?どうして?…
 恐らく、オケを辞めようと思った時のオレは、極度な鬱状態にあったのだと思う。人と会う事の恐怖感、それから逃れる為に、必要以上に強くいようとする。だから何でも完璧でなくてはいけないと思ってしまう、その繰り返しだった。
 そして当時のオレが下した結論はこうだった。
 ホルンを吹いて食って行けるって、きっとかなり恵まれた事なんだ。でもオレは有難いと思わず、苦痛に感じてしまっている。とんでも無い世間知らずだからだろう。だったら暫くホルンを休んで、世間の勉強をしよう。
 半分は苦痛からの逃げだっただろう。だが、普通の社会への興味もかなりあった。そしてオレは、モーツァルトの40番を最後にオケを辞めた。
 暫くは放心状態。何かしなくちゃ、そう思い、フリーターを始めた。色々な事があった。最初は宅配。ガテン系。ついて行けなかった。要領の良さを要求される世界だから。玉砕覚悟の真っ向勝負しか出来ないオレには向いていなかった。
 そしてガードマン。始めは良かった。その内、現場が無くなって行く。二つ目の会社へ。その頃になるとオレは、ある程度まで立ち直っていた。笑顔も見せ、冗談も言う様になっていた。今程は面白く無かったけどね。(^.^;)
 そしてその二つ目の会社での、初めての常駐現場が、ここ、後楽園駅から近くにあった。
 本番当日、その頃の思い出の場所を訪れるかどうか、かなり迷った。そんな気持ちで池袋駅の券売機へ。すると…


 馴染み深かった営団地下鉄は、『東京メトロ』として生まれ変わっていた。ずっと有楽町線沿線で暮らしたオレは、極度にノスタルジックな気分になってしまった。時間もあった。だから訪れる事にした。
 

 後楽園駅前にある『礫川公園』。現場に通い出したオレは、正気を取り戻し、一体何て事をしちまったんだ、と辞めてから初めて思った。この公園のこのベンチに腰かけ、焼き鳥を食っていると、大型犬が一匹やって来た。帰宅前、夕方だった。考えている事が深刻で、しかも後悔だったもんで、人知れず涙が出て来た。するとそのわんこ、大丈夫?しっかりして!!と言いたげにオレに近寄り、一緒に悲しい目になっていた。丸でオレの考えている事が見えている様だった。この時の事、一生忘れてはいけない、そう思い、あらためて心に深く刻んだ。
 

 この二枚が現場。出来上がってから見るのは二度目。右の写真の赤い部分の辺りがオレの指定席だった。ここで、シャブ中と格闘の上逮捕。お手柄っつうよりも、もう二度とそんな事したくない。平和が一番。(-_-;)
  

 左が、現場のすぐ近くから見た文京シビックホールのある文京シビックセンター。デカイ!!当時は勿論、そんなもん建ってなかった。古い話なのである。
 オレにとっては、文京シビックホールは、このページの最初で書いた通り、日の目を見る舞台なわけである。そして、あの若い頃に感じた事、しでかしたバカ、そういったものをあらためて考えると、オレが長い時間かけて学んだ事って、結局『期待通り』に否定出来たって事になるんだと思う。
 別に他人様の厚意で上に行ったからって、それは悪い事ではない。実力だってそこんとこで頑張ってれば付くし、付かなければ辞めるというか追い出されて終わり。それまで精一杯やればいい、それが正解だったんだな。本当にいい勉強出来た十数年だった。
 今、やはり恭先生始め、多くの方々のご尽力を頂いている。それは決して悪い事ではなく、とてつもなく素晴らしい事なんだ、心の底からそう言える様になった。それがとてもとても嬉しい。ひねくれてる場合ぢゃない。真っ向勝負の持ち玉ストレートのみでいいぢゃないか。ダメだったらどうするか?…そしたらダメ、それで終わりでいいぢゃないか。
 こんな事を心底理解するのに、こんなに時間が必要だった。だが無駄だったわけではない。『苦労は買ってでもしろ』という。オレは文字通り『買った』んだよな。
 後悔役立たず、だったらどうするか考えろ。以上。m(_ _)m

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